2度目の参加、ヴィパッサナー瞑想が良かったと改めて

meditation
2022年4月13日から24日まで千葉県にあるヴィパッサナー瞑想センターダンマーディッチャにて10日間のコースに参加しました。
この機会を通して学んだこと、感じたこと、気付いたことをいつかまた訪れるだろう次の機会に懐かしく思い出せるよう書き残しておきたいと思います。
ヴィパッサナー瞑想に初めて参加したのは2016年9月14日から25日に行われた10日間コース。参加後には、2-3年に一度はこの場所で瞑想10日間コースに参加しようと思っていましたが気がつけば6年がすぎ僕自身を取り巻く環境も大きく変化しました。

初めて参加したのは2016年。6年も前だった。

6年前のことを少し振り返っておくと、3年過ごしたフィリピンから日本に戻り日本の友人たちと楽しく時間を過ごしていた頃。
日本で在籍していた会社の雰囲気から旅や独特な生活を営んでいる友人が周りに多く、そんな仲間から面白い経験が出来ると聞いていたヴィパッサナー瞑想、瞑想そのものよりもそれを取り巻く世界観や、それを好む人達の人柄に惹かれて参加しました。

自分がまだ見たことのない世界に足を踏み入れたい好奇心と、その先に何があるのか知りたい探究心で訪れた初めてのヴィパッサナー瞑想。

コースへの参加後はまたフィリピンに戻ることを決めており当時はユーチューバーに憧れて動画編集を独学で始めた頃でした。
前回の参加から今回までの6年間はヴィパッサナー瞑想の不思議な導きでしょうか、様々な瞑想者との出逢いに恵まれ自然と瞑想する日々が習慣となりました。

日本には京都と千葉にヴィパッサナー瞑想の施設がある

ヴィパッサナー瞑想についての説明やコースが開催されている施設の雰囲気、10日間コースに参加するにあたっての持ち物や心構えなどは他のブログやヴィパッサナー瞑想のサイトにも十分な情報があるのでここでは僕自身が10日間で経験したことを中心にお話したいと思います。

ヴィパッサナー瞑想に参加した10日間を振り返る。

0日目、到着日

福岡から成田に向かい、成田空港から千葉駅、外房線で茂原駅へと。
茂原駅からは地域の路線バスでダンマーディッチャに向かう。
コロナの時期で参加者が限られていること、そもそもコースが人気で参加がなかなか難しくなっているのでコースに参加できたことがとても嬉しかった。
施設に到着するとウキウキと高鳴る気持ちが抑えきれず、少し玄人ぶりながら受付をしてた。後にこのコースのマネージャを務めると聞いたヒロさんという若い奉仕者の方に受付を案内して頂きながら「なにか自信のような雰囲気が溢れ出てますね」と微笑みながら言われ恥ずかしくなった。
穏やかに佇む瞑想者の前に座る僕は慢心と妙なプライドを身にまとった俗世の汚れそのものだなぁ、思いながら瞑想生活は幕をあけた。
施設に到着したのは午後3時頃で簡単な説明を受けて貴重品や携帯電話を預けたのちこれから10日間、食事をする机の場所や使用するシャワー室、自分の半個室を見てまわった。
ヴィバッサナー瞑想センターダンマーディッチャは実に近代的な建物で24時間空調が入っており瞑想を行うホールは床暖房が配備されている。10日間は修行のイメージだが、生活を行う場所は清潔感があり居心地が良い。何より民家などが施設の近くに少ない隔たれた場所にあり広大な敷地を所有しているので空間がとても広く、自然豊かで開放的なとても気持ちよい場所だ。
これらの施設が寄付によって運営されており、運営に関わる多くのスタッフの方々、提供される食事などのことを思えばまさに軌跡の場所。
僕自身、使わせていただくこの場所に対してなんの貢献も出来ていないが、このような施設が大切に健全に運営されている国に生まれたことが大げさかもしれないがなんとも誇らしい。

1日目

朝4時起床、4時半から瞑想が始まる。
おおよそ1時間毎に休憩時間があり朝、昼の食事時間と夜のティータイムにはまとまった休憩時間がある。
今日から10日間、朝4時半から夜9時半まで1日中、目をとじ座っている。
他に参加している40名以上の人達と目も合わさず、会話もなく、ともに時間を過ごしていることを意識することもなく自分だけに集中して座っている。
ホールに入り、姿勢を定めて、静かに座る。
瞑想をガイドするアナウンスに耳を傾けながら言われたままに集中して座っていると少しずつ心が僕に語りかけ始める。
瞑想をガイドするS,NGoenka師のテープで繰り返し「一生懸命に働きなさい」とアナウンスされていた言葉を一生懸命に聞いていたはずなのに一生懸命な妄想が始まる。
自身の歩んできた過去を振り返ったかと思うと、次は未来を憂う。
こんなところで一体何をしているのだろうと今を不安に感じてみたりと忙しく考える種を見つけては深く考えたり新しいアイデアを探してみたりと心がアチラコチラへと移ろいでいく。
ヴィバッサナー瞑想とは瞑想法のことで、これを実際に行うのはコースの4日目から。
1日目はシーラと呼ばれる道徳律を学び、3日目まではアーナパーナと呼ばれる瞑想法を学ぶ。
アーナパーナの方法はとても簡単で自分の息に意識を向け、鼻から息が出ていく感覚、息が入ってくる感覚だけに自分の注意を向ける。
これを一生懸命に行うはずが妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消え、、浮かんでは浮かんでは浮かんでは。。。浮かぶ。。。
自己観察をしていると体と意識、そして心がそこにあることを感じる。
そして、当然のごとく自分の意識で今日まで自分の人生を歩んで来たと思っていたが、実際のところはおしゃべり好きな心の奴隷だ。
心がおもむくままに意識と体を従えている。
一体何なんだろう、
止まぬ妄想と移ろう心に振り回されながら、その心に深く根付いた汚濁に気がつく経験をして1日目は少し自分に落胆していた。

2日目

1日目と同じように身支度を整えて4時半から瞑想ホールに向かい瞑想を行うのだが、誰もいないホールに一番乗りして瞑想を始めるのが頑張っている気がして心地よかった。
瞑想が深まるにつれこういった気持ちの一つ一つに後々に気がついて行くのだが、最初の頃はただ座っているだけだ。いや、ただ座っているだけが出来ず時間を弄び昨日同様に思考ゲームを繰り広げていた。
2日目は、前回の参加時に感じていた事や考えていたことをよく思い出していた。
前回は6日目あたりから本当の意味での瞑想が出来ていた感覚があったので今回はそれよりももう少し早く瞑想が出来るように(心が落ち着きを取り戻し意思によって自分が存在している状態)なればよいなぁと考えていた。
わざわざ時間を割いて10日にもおよぶコースに参加しながらじっと座ることもできないのかと思われそうだが、意識が離れ心によって思いのままに体が動く経験はみな少なからず普段の生活で行っているように思う。
例えば、運転中に車が勝手に前に進んでいたり、
料理のときに大根が思いの外刻まれていたり、
物思いにふけているときに降りる駅をぼーっと見逃していたりするあの感覚だ。
心を落ち着かせ、意識をもって生活しなければ人生はとても大変だ。
普段意識しない当たり前だとおもうことほど当然だと思うほど実は想像以上に難しいのかもしれない。

3日目

決意の時間が始まる。
1日に3回、1時間決意を持って座りなさいと言われる日が来た。
この決意とは、自分で1時間動かないで座ると決意してから瞑想に入りなさいと言うことなのだが、これが本当に本当に辛い。
特に足が激しい痛みに襲われるのだが、この痛みが本当に本当に辛くとても耐えれたものではない、、かと思うと何かが顔に止まった気がする、、腕を何かが這った気がする、、、妙に背中が痒い、、決意とは何なんだろうか、、、こんな思いをする必要がいったいどこにあるのだろうか、、、もう、十分だろう、、、あぁ、心の声が聞こえる。。。
強い意思で決意を持って座ったはずが、心によって心地が良い方に誘われる。
こんな経験を何度か繰り返しながら心の性質を経験をもって学ぶ。
もう十分頑張っただろう、、いったいいつこの1時間が終わるかもわからない。あと、5回呼吸を繰り返しそれでも終わりが来なかったら姿勢を変えよう、、もう十分だ。。
こんなやり取りを何度か自分の中で繰り返していたときにほんの少しだけ腰が落ちた
するとドバァーと足の付根あたりで停滞していた何かが流れ出して一気に足の痛みと辛さが抜け落ちた、、かと思うと決意の時間を終えるS,NGoenka師のテープが瞑想ホールに響き渡る。。一瞬で状況が変化する様はまるでオーケストラのクライマックスの様だった。。
僕はこのとき、「知恵を得た」と感じた。
もがき苦しんだ先には学びがある、少しだけ体を動かすと楽になるという知恵を得たのだと。

4日目

知恵を得た僕は決意の時間を楽しみにするようになっていた。
この苦しさを知恵をもって乗り越えた先にはきっとなにか良いことが待っているに違いない、きっと特別な経験をするに違いないと考えていた。
そしてついに体を動かすこともなく1時間の決意の時間を超えるようになってきた。
移ろう心を従え決意によって1時間座り続けることが出来る様になったことを大いに喜んでいた。
人生は苦しい、1時間の瞑想も苦しい。
その苦しさに反応せず平穏でいる、平静を装うところから始めどんなに苦しくても何事もなかったかのように振る舞うのだ。
始めた瞑想は必ずいつか必ず終わる、何も自分から苦しさを理由にその足を解かなくてもいつか終わるのだ。
感覚は生まれ消えゆくもの、生まれては消えるのは自然の法、心の反応によって渇望や嫌悪を生み出す心の習慣を取り除き平穏でいるのだ。テープで学んだことを自分の中で復唱しながら僕は100年の修業を終えた僧のような軽い身のこなしで1時間の決意を終え立ち上がった。
すると右足がそこにあるのかないのかわからないほど痺れており立っているのが不思議なほどだった。
私は知恵を得たのだ、悟ったのだと平静を装い歩きだすが自分の足とも分からない右についた何かは無情にも、、ベタッん!!ベタッん!!!と神聖なホールに大きな足音を響き渡る。。。まだ何もわかってない瞑想者が通ります。

5日目

4時半から6時半に行われる朝の瞑想こそ眠気に気を取られウニウニとしてしまうが、ずいぶんと長く座るようになってきた。
そして、一生懸命に座るようになってきた。
この頃から10日間を数え、あと数日しかないことを憂いた。
同時に過ぎた日々を数え、早く開放されたい、あまりに辛いと感じるようになっていた。
この頃には突然姿が見えなくなり、リタイアする人が何人か現れる。
きっと貴重な時間を割き、入念に準備して参加しただろうに「自分には合わない」と判断して去ったんだろう。
そしてその気持ちもなんとなく理解できてしまう。
僕はとても疲れていたがここでの生活のリズムや瞑想の習慣にも慣れリラックスしているので瞑想はとても深く感じていた。鳥のさえずりと瞑想をガイドするテープの音に耳を傾けながら体中に意識を張り巡らせ頭の先から足の先へ、足の先から頭の先へと感覚を動かしていく。
徐々に起きているのか寝ているのか、心地よいのか、振動しているようにも感じるなにか、ただ意識はそこにあり動かし続けている。意識が這っている場所は体なのか体とその向こうの境界線は意識によって創られているだけで本当にそこに僕はいるのだろうか、そんな不思議な感覚を何度か経験しているとき、自分の家族のことを深く考える機会を得た。
このときの感覚は考えているというよりは自分は意識に集中していて、どこか何もない場所でなにかに出会って進行する物語を俯瞰して見ているような感覚が近い。
僕は2021年の6月に妻と結婚し、2021年の7月に第一子を授かった。
家族との時間はあまりに愛おしく、日々をともに過ごすに連れて自分の心や価値観も大きく変化していった。そしてその時間は僕が青年期に懸命に手放そうとしていた心の癖である強烈な執着を少しずつ生んでいたのかもしれない、そんなことを想っていた。
瞑想を行っているときは出来るだけ集中し、休憩時間に思いっきり物思いにふけよう、そう決めていた僕は夜の瞑想を終えてシャワー室でシャワーを浴びながら物思いにふけるつもりがこういうときほど何も考えず、感覚が冴える。そして、ふとなにかを感じとった。
死期だった。
唐突だが、たしかに感じている。あぁ、死ぬんだ。
僕はもうすぐ死ぬんだ。
なぜそう感じたのか全くわからないが、たしかに死期を感じていた。今思えば頑張りすぎて、瞑想のその世界に入りこみ過ぎて精神的におかしくなっていたのかもしれない。

6日目

30代後半の大大人が恐ろしくて朝から何度か泣いていた。
夢かもしれないが夜中には恐怖で奇声を発し自分の声で飛び起きた。
(夢であってほしかったが後日、この奇声で起きた人が何人かいたことを知る、すいません。。)
あぁ、そうか死ぬのか。
なんで死ぬんんだろう、そう思うと悲しくて悲しくていたたまれなかった。
徐々に体から力が抜けていき瞑想ホールに向かう自分の足取りがペラペラの紙のように感じる、まるで風になびく紙がペラペラと自分を前に勝手に進めているようだった。
どうにか力が湧いて来ないかと思ったが力がそこにないのだ。力がそこにないと力をわかすことが出来ないと知った。
そして、懸命に家族を想っても、懸命に自分の人生に執着しても、やり残したことを思い出そうとしても、なぜか生きることを手放してしまう、、、もう良いだろう、十分じゃないかと死に行くことを受けれてしまう。
死に向かう自分を受け入れて大きな無力感の中にいた。
僕は死んだ。
死とは生への執着を手放したときに自然と訪れるのだ。生まれは消える、そういうものだ。

7日目

今日が終われば後2日しかない。
(実際にはコースの終了まで3日だが最後の1日は聖なる沈黙が解かれて世間に戻るためのリハビリのような時間になっていく。瞑想は続けるが、参加者同士で話をしても良いのでどうしても自分だけに向いていた意識が周りで生活する人達たちにも向いていく。)
瞑想をガイドするテープでもしきりにあと数日しか座る時間がないことを話していた。
もう少しで終わってしまう、一生懸命にこの時間を瞑想にあてよう、そう思うと活力が湧いてきて少しずつ死の恐怖や絶望から生への活力への気持ちが変わってきた。
元気が出てくると不思議と邪な考えも増えてきて未来のことを考え始めたり、瞑想後の予定を思い出していたりした。
深い深い瞑想状態から少しだけ良くも悪くも正気に戻っていたのだろう。
このときにはコースの終了日を勘違いしており友人との約束に行けそうにないことを思い出したりもしたので一度連絡を取らせてもらえないかとコースマネージャーのヒロさんに携帯の使用許可を相談したりもした。
後日、アシスタント指導者と呼ばれるコースの責任者から瞑想に集中してほしいと携帯利用の許可が降りずその日に携帯を触ることは叶わなかったのだが最終日の聖なる沈黙が解かれたあとであれば良いとのこと、その時間でも十分に間に合うので、頂いた判断は正しく良い判断だと感じたりもした。

8日目

心はとても穏やかで瞑想に深く入っていた。
コースが始まってからずっと雨続きだったが今日は朝から気持ちよく晴れておりとても良い雰囲気だった。
毎晩、7時半ごろからテープで法話のようなものを聞く時間があるのだがそこでの学びが自身のこれまでのコースでの経験と重なり深い学びになっていくことなどを考えていた。
1日目の瞑想時に感じた自身への落胆は嫌悪と呼ばれる心の反応だろう
3日目に感じた知恵を得た感覚は渇望と呼ぶそうだ。
心の反応によって生み出される感覚は嫌悪か渇望のどちらかになることが多く、この心の習慣を変えなければ僕はいつまで経っても心の反応によって自らが生み出す嫌悪と渇望に振り回されていくのだ。
今は心は落ち着きいつも同じ場所にいる感覚があり、瞑想の中で意識が様々な場面へと移ろいでいくこともあるがすべてが満ちており感謝が溢れてくる。
不安や邪な考えも自然と朽ち、ただただ落ち着いている。

9日目

昨日と同様にとても落ち着いた状態だった。
うっすらとした記憶だが8日目に妙に豪盛だった食事が9日目はまた質素に戻っていたときに少し落胆したくらいで心はとても落ちついていたと思う。
コース期間中に提供される食事について触れておくと、朝、昼と食事が提供され2度目の参加の僕は古い生徒に分類され夜は飲み物だけを口にする。
食事は菜食でとても美味しい。つくり手の愛情を感じる時間は毎回本当に楽しみで心から感謝していた。
また、限られた中でもバリエーションが豊富で大変に満足だった。
9日目には今に集中する力が養われてきており未来を思い不安感につつまれるということもなく、そのときにやってみなければわからないことと今から準備が出来ることに切り分けて考えられるようになっていた。そして、その時折に誠心誠意やれば良いことを今から必要以上に考えても仕方ないことを学んでいた。
すべてはつながっており今に集中し一生懸命に自分が出来る限りを尽くすことで、自分の人生は豊かになり、その喜びが人に伝わるとき人が喜んでくれる。それがまた自らの幸せにつながることなどを感じていた。
素直に誠実であろうと思う、瞑想を通し経験を持ってたくさんの学びを得た。
心が落ち着き、意識が今に集中している。

10日目

朝の瞑想が終えると聖なる沈黙が解かれる。
そして僕は、この10日間コースの集大成のような経験をしたのだった。
朝から不思議な感覚とともに何かに導かれながら少しずつ記憶の断片がつながっていく。不思議と目に入るものがまるでパズルかのように失われた記憶を取り戻す手助けをしてくれる。
そして、過去の記憶の中でそれほどインパクトがないと思っていたいくつかのシーンが実は強烈な経験となっており、それが心の汚濁を生んでいたことをしった。
その汚濁は、感覚の続きを探し僕を渇望や嫌悪の虜にしていたのだ。また、その気持ちに落胆という嫌悪を持って反応したのが一日目だった。
こうして初日に感じた嫌悪の生まれた瞬間に最終日に気がつくことが出来て、それを手放すことが出来た。
今回はこのような結果だったが、きっと自分でも気がついていない心の凝りとなっている部分は他にもたくさんあるのだろう。
瞑想がそれぞれが持つ心の習慣を変え解決するきっかけになるかはわからないが、僕はとてもよい経験をしたと思っている。

ヴィバッサナー瞑想参加後に思うこと。

この学びをどのように自分の生活に取り入れていくのかは自分次第だ。
コース最後の法話で、コース後も毎朝1時間、寝る前に1時間、合計2時間も座れという。忙しい現代人には大変な時間だが、そうして規律を守り常に自分自身に気づいていなければ、また人生の自動運転が始まる。
意識は遠のき、心が心地の良さを探し続け、反応し、嫌悪と渇望を生み出す日々が続いてしまう。
特に現代人の目は忙しくやっかいだ、目を奪われてはいけないと強く思う。
目をつぶり意識に集中していたほうが目を開けているよりもなんと学びが多いことかと驚いた。
懸命に自分の将来を憂いてユーチューブで頭の良さそうな番組をみて、ツイッターで意見を求め、フェイスブックで近況を報告し合う僕はいったい何をしていたのだろうか。
少し落ち着いたほうが良い、
家族がある人、仕事がある人、それぞれだろうが人生の中に10日くらい目をつむり落ち着いて生活する日々があっても良いと思う。生まれては消え、消えては生まれるのが自然の法。
種はその種の性質のままに実をつける。
心の反応は緊張を生み、その緊張はそのまま人に伝わる。
緊張した心で嫌悪や渇望を生んではその種を人の心に投げつける。きっと、その種はその性質のままに実をつけるだろう。
この心の習慣にゴータマ・ブッタは2500年前に気がつき、それを変える方法としてヴィパッサナー瞑想を解いたのだという。
その道具は形を変えることなく今なお引き継がれ、日本では京都と千葉で経験することが出来る。

最後に。

このコースは寄付となっており、僕は前回にこのコースに参加した方が施設に残した寄付でコースに参加しました。そして、他の人にもこの機会があたえられますように。と、施設に寄付を残して帰路につきます。この文章を最後まで読んでくださった熱心な方には、この機会を体験し、よければ次に繋いでほしいと思っています。
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